重要文化財から問題作まで、約100点でたどる、日本のヌード絵画の企画展です。今日も盛んに描かれ続ける、はだかの人物を主題とする絵画。
日本でも、絵といえば、風景や静物とともに、女性のヌードを思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。はだかの人物を美術作品として描き表し、それを公の場で鑑賞する。この風習は、実はフランスやイタリア経由の「異文化」として、明治の半ばに日本へ入って来たものでした。
以後、これが定着するまで、はだかと絵画をめぐって、描く人(画家)、見る人(鑑賞者)、取り締まる人(警察)の間に多くのやりとりが生じることになります。
「芸術にエロスは必要か」。「芸術かわいせつかを判断するのは誰か」。それらにはじまり、「どんなシチュエーションならば不自然ではないのか」「性器はどこまで描くのか」といった具体的な事柄まで、これまで多くの画家たちが最適な表現方法を探ってきました。
本展では、今日も広く論じられる問いの原点を、1880年代から1940年代までの代表的な油彩作品を通じて展示されます。
(画像左)黒田清輝《智・感・情》のうちの感1899年
(画像右)原撫松《裸婦》1906年
会場…国立近代美術館
会期…2011年11月15日〜2012年1月15日
ポスターと言う新しいジャンルで一躍脚光を浴びたロートレックは、歌手や踊り子、女優たちをさまざまな技術を駆使して描き上げた。大胆な構図や鮮やかな色彩はもちろん、彼は、街の彼女たちを醜く描いた。ツンと上を向いた鼻や突き出たあご、老婆のように見える表情や疲れた顔等、デフォルメして特徴的に描いている。さらに社会の底辺に生きる女、娼婦たちを赤裸々に描いた。そこに見えるのは、絶望や虚無、そして深い哀しみといった内面の世界であった。
ロートレックは、南仏の生まれで、生家はフランスの名家であり伯爵家であった。彼は幼少期には「小さな宝石」と呼ばれて、家中から可愛がられて育つが、13歳の時に左の大腿骨を、14歳の時に右の大腿骨をそれぞれ骨折し脚の発育が停止し成人した。身長は152cmに過ぎなかったという。胴体の発育は正常であったが、脚の大きさだけは子供のままの状態であった。
1882年にパリに出て、モンマルトルにあった画塾で学ぶ。この画塾で、ファン・ゴッホ、エミール・ベルナールらと出会っている。
画家自身が身体障害者として差別を受けていたこともあってか、娼婦、踊り子のような夜の世界の女たちに共感したのだろうか。パリの「ムーラン・ルージュ」をはじめとしたダンスホール、酒場などに入り浸りの生活を送った。そして彼女らを内面から湧き出る愛情のこもった筆致で描いていく。作品には「ムーラン・ルージュ」などのポスターの名作も多く、ポスターを芸術の域にまで高めた功績でも美術史上に特筆されるべき画家である。彼のポスターやリトグラフは日本美術から強い影響を受けており、自身のイニシャルを漢字のようにアレンジしたサインも用いた。
長年の飲酒や病で彼は次第に衰弱していった。サナトリウムに滞在した後の1901年に、パリを発って母のもとへ行き、同年自邸のマルロメ城で母に看取られ脳出血で死去した。37歳であった。
ちなみにタイトルの「人間は醜い、されど人生は美しい」は、彼がよく口にしていた言葉である…。
画像左「ムーラン・ルージュ、ラ・グーリュ」
〃 中「化粧」
〃 右「洗濯をする女」
三菱一号館美術館 10月13日〜12月25日
金箔を多用した、絢爛で官能的な作品を多数生み出して、日本でも多くのファンがいるクリムトです。彼は相当なプレイボーイだったらしく、モデルになった女性と次々関係を持っていたという話がありますが、そんな裏側を覗けるのが映画「クリムト」です。
この映画は、死の床にいるクリムトが今までの自分の人生を走馬灯のように振り返るという設定で語られています。混乱の中にあるウィーン美術界や、それに巻き込まれるクリムト、そしてそんな彼を励まし、そして誘惑する女性たちが次々と登場してきます。
圧倒的な創造性を持ちながらもどこか脆く、女性たちの母性本能がくすぐられそうな本作のクリムトを見ていると、そのモテモテぶりも妙に納得できます。ちなみに、クリムトには、ジョン・マルコビッチが扮し、見事な怪優っぷりを発揮しています。
(画像左)「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像」
(画像右)映画「クリムト」ポスター
ちなみに「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像」は、2006年に史上最高値のなんと1億3500万ドル(約160億円)で化粧品会社エスティローダーのロナルド・ローター氏が購入しています。
展示は1940年代末の幻想的な初期作から始まり、大画面を白い編み目が覆う絵画やパフォーマンスの映像、さらにイモや男根を思わせる布製の突起物がイスやはしごに密集する立体へと続く。空間性と華やかさを増した近年の作品まで、約250点が並ぶ。
時代順の展示だが、比較的小さな展示室が多いこともあり、部屋を巡りながら作風の変遷と向き合える。同センターのマニュエル・ボルハビジェル館長も「各部屋を歩み、草間さんの世界を追体験してほしい」と話す。
回顧展はロンドンのテート・モダンを中心とした企画で、マドリード、ロンドンのほか、パリのポンピドーセンターとニューヨークのホイットニー美術館を巡回。その豪華さに、草間の評価の高さが表れている。
ヨーロッパの大美術館ゆえの別の作用もある。草間作品は、自身を苦しめてきた幻覚や強迫観念、「カワイイ」といったポップカルチャーとの関係で語られがちだが、異なる面が浮上しやすくなっている。
例えば「残夢」(49年)などの初期作に、日本で見る以上にシュールレアリスム的色彩を強く確認できるのは、別の展示室にダリやミロがある効果ともいえる。出発点で、西洋美術と価値観をかなり共有していたと見ることもできる。ボルハビジェル館長も「他の20世紀作品と対比し、草間さんの重要性が確認できる」と指摘する。
逆に、編み目や水玉、布の立体の繰り返しは、同一単位を反復するミニマルアートやポップアートとの関連が指摘されてきたが、そうした潮流とのズレも確認できる。編み目は絵の具が盛り上がり、身体行為の跡という性格がうかがえ、立体などの反復にも個別性や増殖のイメージがある。工業主義的、複製芸術的な反復を見せたミニマルやポップとは少し異なっている。
同時に、まさに正統的なモダニズムの作家だとも理解できる。鏡の部屋での反射で無限に続く電球の群れや、増殖の強度を増した新作絵画に至るまで、「無限性」を核に、常に自身の内面に向き合う姿勢が、見事な一貫性を感じさせるからだ。
草間自身、「これまで死ぬ気で作ってきた。それをヨーロッパで見てもらえるのはうれしい」と語る。
来年1月、新作絵画などによる巡回展が、大阪・国立国際美術館から始まる。制作に追われる日々に、草間はこう話す。「毎日、描き続けて、寝る間も惜しいの」その制作人生もまた、無限に続いている。